ハルハ河戦争(ノモンハン事件)80周年

「ハルハ河戦争」という言葉を聞いたことはありますか?

これは、1939年に日本軍が戦った紛争を指しますが、日本人にはあまり馴染みのない呼称かもしれません。

では、「ノモンハン事件」ではどうでしょうか?歴史の教科書で習った記憶が蘇ってきたでしょうか??

この「ハルハ河戦争」と「ノモンハン事件」、実は同じ史実を指しているのですが、日本とモンゴルでは、呼称が異なります。日本の認識としては、この紛争を「ノモンハン事件」と呼び、戦争の扱いはしていません。1939年5月から約4カ月間にわたり続いたこの紛争は、当時満州国を実質的に支配していた日本と、満州国と国境を接するソ連およびモンゴル(当時はモンゴル人民共和国)との間で、国境衝突が激化したものです。1924年に中華民国から独立したモンゴルは、独立当初からソ連の影響下にあり、1934年には「ソビエト・モンゴル相互援助条約」を締結して、ソ連軍の抗日作戦に加わっていくことになります。なぜ「ハルハ河」という固有名詞が出てくるかというと、当時、モンゴルと満州国の国境沿いに流れていたのが「ハルハ河」で、日本はこのハルハ河を国境線としていました。しかし、ソ連・モンゴル側はハルハ河から20キロほど東へ行った地点を通る線を国境線としており、この両者の主張の違いが小競り合いを生み、最終的には双方が約2万人もの死傷者を出す大規模な紛争へと発展していったのです。日本もソ連もこの紛争を「戦争」と捉えなかったのは、あくまでも国境衝突が激化した結果であり、公式な宣戦布告がなされていなかったためとされていますが、モンゴルにとっては、自国の領土でこのような激戦が繰り広げられた事実は、「戦争」以外の何ものでもなく、ソ連と共に日本と戦った戦争史として認識されています。(詳しくは、参考文献「ノモンハンの闘い」(シーシキン著・田中克彦訳)をご一読下さい。)

 

では、日本と戦争したという認識があるから現在のモンゴル世論に反日感情が見られるのかと言えば、そこに相関関係は見られないようで、むしろ民主化直後のモンゴルに対し日本が援助した歴史を評価する意見が多く聞かれます。ただ、今年はハルハ河戦争(ノモンハン事件)から80周記念ということで、今月2日にはロシアのプーチン大統領をモンゴルへ招致し、大々的に戦勝記念を祝いつつ、二国間の連携の強さがアピールされました。モンゴルとしては、近年の東アジアの安全保障を取り巻く情勢や、中国に対する危機意識、バトトルガ大統領がロシア寄りということもあり、ロシアとの良好な関係性を示す狙いがあったのかと思いますが、過去の節目にこのような大規模な戦勝記念行事は開催されてこなかったので、唐突な感は否めませんでした。(9月3日は急きょ、会社も学校もお休みになりました。モンゴルあるあるです。笑)

 

さて、プーチン大統領がやってきて実際どんなことが行われたかというと、歓迎式典に続き、両大統領で単独会談が実施され、10件もの公文書に署名がされたとのことです。内容は、二国間のパートナーシップに関する協定から、軍事支援、テロ対策、鉱物資源関連企業の連携、などなど。モンゴルは、ロシアからのインフラ支援も取り付けたそうです。(もちろん、「タダで」というわけではないはずですが。)

街もメディアもロシア一色になる様子を見ると、いち「モンゴルファン」の個人的な想いとしては、中国の脅威に対抗するためにもロシアのパワーは有効活用しつつ、でも、それでも・・・あまり過度に肩入れすることなくうまいことやってほしいな、そして資源はモンゴル国民の生活に裨益する形で活用されたらいいな、と願わずにはいられないのです。そのためにも、「第三の隣国」である日本との関わりは、やはり重要なのだと思います。

 

9月3日は、快晴。青空の下、ウランバートルの街中にモンゴルとロシアの国旗がはためいていました。

 

 

 

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鹿野 詩織
鹿野 詩織(かの・しおり)

8歳の頃、初めて出会った海外の友人がモンゴル人だったことがきっかけで、モンゴルに憧れを抱く。 早稲田大学国際教養学部在学中にモンゴル国立大学への留学が実現。 卒業後、アクセンチュア株式会社、外務省勤務を経て、日本国際協力センター(JICE)にて、モンゴルにおけるJICAの人材育成プロジェクトに携わる。 モンゴル滞在中は、孤児院支援、遊牧生活、起業も経験。 現在は早稲田大学公共経営大学院に在学し、モンゴル研究、通訳、執筆活動等を行っている。

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